社会人になる二歩手前で、「レディ・ジョーカー」
特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
青春の一冊、という言葉で思い出すのは、高村薫の「レディ・ジョーカー」だ。読んだのは、大学二年のとき。忘れもしない、読了したのは、朝5時にセットしていた炊飯器が炊き上がったときだ。
最後の一行を読み終え、これはなんなのだ、と放心していた時に、炊き上がりましたよーと、炊飯器が高らかに音を立てていたのを、覚えている。
ひたすらに重く、組織で働く男たちの姿に、ただただ、圧倒された。アルバイトはしていても、そこに責任も、誰かを養う義務もない。そんな私が、本当の意味で、この小説のもつ重さを実感出来るはずはない。だから、たた単純に、合田雄一郎のもつ影に魅かれ、私も早く社会に出て働いてみたい! と、能天気に憧れを抱いたのだろう。なぜなら、大学生の小娘にとって、鬱屈をためながらも警察組織の中である一定の地位を得て、仕事をする姿は、素敵にみえた。
だけど、実際に社会に出てみれば、「大学生」という肩書きもなく、ひとりの人間としてお仕事をするということの、厳しさを思い知らされた。城山社長のように会社を背負う責任もなく、合田さんや加納さんのように、正義を貫くという信念もなく、ただ社会人としてあることに、とてつもないしんどさを覚えた。私には、何の能力もない。だけど、働かなくちゃ。
今考えれば、本当にがむしゃらだったと思う。毎日毎日が修業のようで、家には眠る為に帰るだけ。私は何をしているんだろう? そんな疑問が、出勤前、お化粧をしながらよく浮かんだ。鏡の中の自分は、かっこよくない。だけど、そんなとき合田さんの言葉が、背中を押した。
「いつか落とし前をつける気があるなら、這ってでも行け」
一体何の落とし前をつけるのか、自分でもよく分からなかったが、その言葉は、私を前に進ませた。たまに、さぼった。たまに、泣いた。よく、周囲のひとに助けてもらった。
そして今、鏡の中の自分を、すきになってきた。
先日、会社の先輩が、仕事の量と質という話をしてくれた。効率的に仕事を進め、就業時間内でいかに結果を出すかということも大事だけれど、量をただひたすらにこなす時期も必要だと。その時期を経て、質を求める段階にいく、と。なるほどなあと思った。私が落とし前をつけようとあがいていた時期は、量をこなす時だったのだろうと合点がいった。
落とし前をつけたかったのは、甘えた自分。何者かになりたいと、もがいていた自分。
私は、合田さんや加納さんのように、巨大な何かと戦うようになりたいと、思っていた。それが、存在意義になると思っていた。
でも、今はなりたくない。何かと戦わなくても、ただ、目の前にあるお仕事を一生懸命にやること、大切なひとを大事にすること。それだけで、ここにいる意味があるのだと分かったからだ。
ひとは、かわる。あの炊飯器の音を聞いていた幼い私と、今の私は、きっと別人のようにちがう。私はこの本の登場人物のようには、生きられない。私は私のやり方で、生きていく。そう思えるようになったのも、社会人としての基礎体力をつけてもらった時期があったからだ。
「いつか落とし前をつける気があるなら、這ってでも行け」
合田さんは、鬼教官みたいだな、と思う。だけど、きっととても優しいひとだ。
以前書いていたものが、下書きのままだったよ。せっかくなので、あげちゃう!